2012年3月24日土曜日

    七、の(二)                                                                                                        P.19

 前述した瓏仙老師の言葉は諸宗教が追い求めるべきものが究極的に普遍的、実存的真理に帰するということを示唆しているように思われます。つまり、「聖霊」も老師の言う「宝玉の如き心」もヒルティのいう「超感覚的世界の存在」、あるいはまた、「人間生来のあらゆる力に優るある大きな力」に通じるものでしょう。それは宗教、宗派を超えたものです。それは前章「ヒルティと禅」で私が訴えたかったことでもあります。

 アポロ9号の宇宙飛行士シュワイガート氏は宇宙空間での神秘的体験を語っています。その時感じた不思議な力をライフフォース(生命の力)と呼んでいます。そして、「地球も宇宙も大きな生命体、その生命は地球を包み、地球に生息する全ての生命力に吹き込まれている。」と語っています。
これこそキリスト教、仏教など諸宗教が追い求めるべきものではないかと感じるのです。それは「至高の意思を持った宇宙に隈なく存在する普遍的真理」とも表現できるかと思います。

宗教というものはこのような普遍的真理を山頂とする山登りにも例えられましょう。その山頂へ至るコースはキリスト教コース、仏教コース、回教コースなど多彩であり、さらに無数の宗派に分かれています。登山者(信者)は目指す山頂は同一であるはずなのに、自分達のコース(宗教あるいは宗派)こそ唯一無二絶対正しいと信じているので、争いが生じます。それが有史以来飽くことなく続いてきた宗教戦争です。これほど愚かなことはないと思います。戦争まで至らずともほとんどの登山者(信者)は頂上を見失って、コースをはずれ挫折してしまいます。

他の宗教も認めるという広い視野が求められましょう。それは「無宗教の宗教」というものでありましょうか。ヒルティはそこまでは言ってませんが、ヒルティを学んでいくとそういう考えに行き着くのです。

 『実に神の近くにあることこそ、あらゆる宗教の、真に唯一つの重大事である。』(「幸Ⅲ」208頁)

( 次の八章では「自殺」のことを考えて見ましょう。 )

2012年3月23日金曜日

   七、 真の宗教とは ― 宗教、宗派をこえて                                                           P.18

  『キリスト教こそ、貧しい者、虐げられた者のための、世にある限り最上の世界観を含んでいる。』
(「夜Ⅱ」5月6日)

 ヒルティはキリスト教を唯一無二、至上のものとして信仰し続けましたが、一方でキリスト教会の存在価値は認めつつもこの教団は 『その創始者の思想に完全に適合した正しい完成に達したことがまだ一度もない。』 (「夜Ⅰ」3月8日)とし、また、聖職者達が教条主義、形式主義果ては偽善にさえ陥っている教会の現実に警鐘を鳴らし続けました。そして、人を仲立ちとしないで、自己がキリストと直接に対峙することこそまことのキリスト教の道であると説いたのです。 

  『ただ神とだけでいることが重要であり、他の人達と絶えずいることは、彼らを真の自己反省に導かない。これが、ひどく過大に見られがちないわゆる「キリスト者の交わり」に生じる欠点である。』    (「夜Ⅰ」8月10日)

毎週末教会に行って説教を聞き、祈りをささげ、讃美歌を歌ってのち談笑のなかで信者同士の親交を深める。そのようないわば仲良しグループのような集まりでは真の内的進化は望めないということでありましょう。  

  『要するに肝心なことは教理ではなくて、むしろキリストに捧げる愛と生活であり、これを通じてわれわれをただ一人でもまことの真理に達しうると言うことを承認する信仰である。』 (「夜Ⅱ1月20日)

また、『キリストの神性について議論することは全く無益なことである。』 (「夜Ⅰ」9月8日)とし、三位一体説に対しても『理解不可能なものであり、単なる比喩に過ぎない』 (前喝に同じ)とも断言し、不毛な神学論争を諌めています。このようなヒルティの言葉をみてくると、教団も教会も聖職者の説教も真の救いのためにはむしろ、障害であるかのように思われてきます。
では本当の宗教とは一体どういうものなのでしょうか。もう少し、考えて見ましょう。

( 続きます )

2012年3月22日木曜日

                                                                                                                          P.17

 次の言葉も禅の精神に通じるものがあるように感じます。

  『信仰に生きることはすべて他の大きな危険の多い事業と同様である。しばしば危機一髪の瞬間には、もはや退けないと言う意識の方が、最大の勇気や理論的に完全な確信よりも、一層力強いものであり、また人を強くするものであるということが分かる。』 (「幸Ⅲ」115頁)

 沢庵禅師は「間髪を入れない動きこそ仏教の極意だ。」(「禅入門 8 沢庵 不動智神妙録」 市川白弦 講談社)と言っています。人は人生の迷妄のなかにある時には寝ても覚めてもあれやこれやと思い悩み苦しみます。しかし、こうした煩悶が去った時、珠玉のものが出てきます。この「煩悶が去る」ということは間髪を入れない動きの中に出て来るのです。

ヒルティがもし、東洋の禅に触れる機会を得ていたならば、深い理解を示していたのではないでしょうか。

( 第七章へ続きます )

2012年3月21日水曜日

    六、 ヒルティと禅                                                                                       P.16

  ヒルティの言葉の中に東洋の禅との類似点を見出すことは興味深いことです。例えば、

   『生死の境に至れば人は必ず彼を見出す。それを自分で体験した者は彼こそは人がやはり思い出す最後のものであることを知っている。』 (「ヒルティ著作集9白水社 前掲141頁)

ここで言う『彼』とは無論、『神』のことでしょう。次は曹洞宗の開祖道元の言葉で曹洞禅の真髄を表現しているといわれます。

 「この生死(しょうじ)はすなはち仏の御命なり。これを厭いて捨てんとすれば、仏の御命を失わんとするなり。これに止まりて生死に着すれば、これも仏の御命を失ふなり。
厭ふことなく、慕うことなき。この時初めて仏の心に入る。ただし、心をもてはかることなかれ。言葉をもて言ふことなかれ。ただ、わが身をも心も放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏のかたより行われて、これに従いもて行く時、力をも入れず、心も費やさずして、生死を離れ仏となるなり。」
                                                                                      (「正法眼蔵 四」岩波文庫)
  パウロが回心にいたる直前は今日で言えば重度の神経症(ノイローゼ)状態にあったと言えないでしょうか。この道元の言葉はあたかもパウロが神経症的とらわれから脱却し回心(解脱)にいたるプロセスを解説しているかのようです。道元の言う「生死」とは神経症を含むあらゆる人生苦を指しており、またヒルティの言う「生死」もほぼ同じ意味と言ってよいでしょう。
神経症の症状は取り除こうとすればますます増大し、かといって追従していっても同じ結果を招くのみです。
 パウロは万策尽きて、どうすることも出来ない、どうにもならない。しかし、パウロはその時それだけになっていきます。つまり、あらゆる自己を放棄し、心の枷を取り外した時に始めて「神(仏)のかたより行われて」パウロの魂に神(仏)の宿りが始まったのです。それが回心(悟り)となっていったのです。そこには仏教もキリスト教もなく、唯一無二の前述した「大宇宙に存在する普遍的真理」が存在するのみでありましょう。

  神経症をはじめとするあらゆる人生苦から来る不安感、恐怖感、孤独感、絶望感等の負の感情は人間を恐れおののかせ、暗い穴倉へ閉じ込めていきます。しかし、自我の全てを放棄し、神(仏)にすべてを委ねた時、自分の魂の中にこれまでになかった全く新しい、しかもこの上なく高貴な存在が現れてくるのです。それこそが「聖霊」であり、また「死人をよみがえらせてくれる神」というものでありましょう。その時、初めて人は安心立命の境地に至るのです。

 感情は人間が生きている証です。だから、正負どちらの感情からも私達は逃げることは出来ません。しかし、艱難辛苦を通して聖霊の宿りを得たとき、神の光はあらゆる負の感情を凌駕します。しかし、それは負の感情が駆逐されるということでなく、さして気にならない存在に追いやられるということです。
不安や恐怖といった感情の奥底には死に対する恐怖感が存在すると言われます。しかし、三章で触れたように「死の正しい意味」を知った時、死に対する恐怖感は克服され、他のあらゆる負の感情もどうでも良い存在に追いやられることになります。

                                                      (続きます)


2012年3月20日火曜日


   五、 ヒルティの感銘深いエピソード                                                                     P.15

  ヒルティの良き友人であったケラー師の証言
「私が最後に-彼の死ぬほぼ半年前-彼を訪れた時、彼はひどいロイマチスに悩んでいました。辞去する時、私は彼の手をかたく握って〈主があなたのご病気を和らげてくださるようお祈りいたします。〉と申し上げると、彼はほっそりとした指で私の手を取り、真剣な面持ちで言われました。

  『それはいけません!あなたは私どもの主があなたのお祈りを聞いて特別のお恵みをたれて、私からこの苦しみを取り上げて下さると思っていらっしゃるようですが、それはお断り申し上げなければなりません。十日間のロイマチスの苦痛は、私の内なる人間のために私が聞く十の説教よりも、或いは私が読む全ての書物よりも、ずっと薬になるのです。どうぞ、私の苦痛を気になさらないで下さい。』と。私たち神学者は、この法律家から教えられることがたくさんあります。」
(A.シュトゥッキ 国松孝二・伊藤利雄訳「ヒルティ伝」108頁 白水社2008年)

このエピソードの中でヒルティは自身の次の言葉を身をもって実証したものと言えましょう。

 『苦悩の本来の目的は、ただ苦悩によってのみわれわれは神の近くにいることに慣れ、常に神のそば近くにいることを感じることができるという点にある。』
(「幸Ⅱ」 329-330頁)
 『神と共にあって苦しむことは、神なしに生き、まして神無しに苦しむよりも、つねにまさった運命であるという思いをたえずはっきりさせておかねばならない。』  (「幸Ⅲ」 139頁)

 『辛い試練や意気消沈はいつも新しい、より大きな浄福と神の力が加えられるための入り口である』                                 (「夜Ⅰ」十一月六日)

                                                     (次の章へ続きます)


     四 の(二)   V.E.フランクル                              P.14
                                                                                                                                                                                                                                                                                    
 同様の事実はV.E.フランクルという精神医学者がその著書の中で第二次大戦中アウシュビッツ強制収容所という極限状況の中においても見られたことを証言しています。

 「私は強制収容所で以前から知っていた若い女性と一緒になりました。収容所で再会した時、彼女は惨めな境遇にあり、重い病気で死にかかっていました。そして自分でもそれを知っていました。けれども、死ぬ数日前にこう明かしてくれました。
〈私はここに来ることになって、運命に感謝しています。以前何不自由のない生活を送っていた時、たしかに、文学についていろいろと野心を抱いてはいましたが、どこか真剣になりきれないところがありました。でも今はどんなことがあっても幸せです。今はすべてが真剣になりました。それに本当の自分を確かめることができますし、そうしないではいられないのです。〉
こういった時、彼女は以前私が知っていた時より、はればれとしていました。
彼女はその時リルケがあらゆる人に求め、望んだことができたのです。つまり、〈死を自分のものにできること〉に成功したのです。いいかえると、死までも全生涯の意味に組み入れ、死によってさえ、生きる意味を実現することがほんとうにできたのです。」  (V.Eフランクル 山田邦男・松田美佳訳「それでも人生にイエスという」 春秋社1993年 79~80頁)

もう説明は要らないと思います。 この例からも「魂の永遠性」というものが真実味を帯びて迫ってきます。
今、手元に「遺愛集」と言う一冊の歌集があります。これは一死刑囚の遺した短歌集ですが、その中の三首をご紹介させていただきます。(島秋人 「遺愛集」東京美術)

    悟(し)ればなお愛しさ湧きていのちとはかくも尊きものとしらさる

    身に持てる優しさをふと知らされて神の賜る命と思ふ

   笑む今の素直になりしこのいのちあるとは識らず生かされて知る (処刑前夜の歌)

 短歌を通して良心に目覚めて行く心の過程がひしひしと感動的に伝わってきます。
曹洞宗永平寺の管長だった瓏仙老師というひとは「如何なる人にも潜在的に秘蔵している宝玉の如き心があり、修行によってそれを掘り出すことが悟りである。」と言っています。
不治の病の青年、収容所の女性、死刑囚の歌人、また仏教における悟り、いづれも救いに至るその過程はキリスト教でいうところの回心の過程とほとんど全く同じではないかと思えてならないのです。それはあらゆる宗教宗派を超えた大宇宙に存在する普遍的真理というようなものではないでしょうか。

  『来世では現世で非常に軽視されてきた人々が有名な教父たちや現世で聖者とみなされていた人々よりもしばしば高位におかれ、、また先進していることも充分ありうるのである。』
                                        (国松孝二他訳 「ヒルティ著作集8」白水社1979年)

  『教理を知らないでもクリスチャンである者が少なくない。キリスト教は証明さるべき教義て゜はなく、生活さるべき一つの生命である.』 (「夜Ⅱ」1月20日)
  これでお分かりいただけたでしょうか。このように、栄光や名誉のみならず、学歴も学識も肩書きも家柄も全く関係ないのです。
長年、教義の学習や研究にあけくれてきたにもかかわらず、多くの知性も教養も豊かな聖職者達がその利己心が障壁となって、回心に辿り着けないことから、焦燥感或いは懐疑に陥っているという教会の現実をヒルティは嘆いています。その結果、形式主義、偽善、空理をもてあそぶ不毛の神学論争に陥る実態は今もあまり変わりはないでしょう。このようにいわゆる「偉い人」が必ずしも偉いとは限らないのです。

  『御霊は風のように思いのまま吹き、随時、その器となるべき人間を自ら探し出すのである。」                                            (「夜Ⅱ」7月14日)

御霊(聖霊)はいかなる人の魂に宿ろうとしているのか良く考えてみるべきです。

                                             (第五章へと続きます)





2012年3月19日月曜日

   四、 如何なる人も回心に至りうる。                                                                   P.13

 「やはり、よほど優秀で卓越した人でないと回心や悟りに至ることは出来ないのではないか。私などには別世界の話だ。」との声が再び聞こえてきそうです。
しかし、それは大きな誤りです。

 ある世界的な物理学の権威と言われる人が著したヒルティについての本があります。私は期待を込めて読み始めましたがすぐに失望に陥りました。確かにこの著者はヒルティを論じていますが、それはヒルティの一部にすぎません。しかも、最も本質的で内面的な部分には全く触れていないのです。
世界的物理学者という影響力を考えると、その真髄に触れることなく、ヒルティを論じる書を著していることはどうかと思わざるを得ません。これでは正しいヒルティ像とその教えが世に伝わりません。
 いかに優れた物理学者とはいえ「魂の永遠性」とか「人生の最大幸福は神と共にあることだ」等と言っても体験がなければ真の理解は困難なことと思われます。回心は科学的、論理的に証明できるものではなく、理解できないから避けているのだと思われてもしょうがありません。

 この世で名誉や栄光を受けた人が必ずしも神の祝福を受けるとは限りません。「山上の垂訓」(マタイによる福音書5-1~12)にあるように、真実神の光を受けるに値する者は心の貧しい人、悲しむ人、義に飢え乾く人、義のために迫害される人等この世での名誉や栄光には無縁の人たちです。運命に打ちひしがれ、打ち砕かれ常に意気消沈に喘ぐような人たちもしかりです。そのような体験を通して始めてヒルティの言葉は理解できるのです。最近ではある高名な大学の先生がヒルティについての著書を出していますがこれも期待はずれでした。同じく避けているとしか思えません。この人は日頃尊敬している人でもあったのでずいぶんがっかりしたものです。

  『あらゆる人が、学問のあるなしに関わらず、老人でも、若者でも、男でも女でもみなこの霊を受けることが出来る。この霊は人間の間に少しも外的な差別を設けない。』 (「幸Ⅲ」297頁)

キリストは「むしろ、バカになる方が身のためです。天からの真の知恵を受け取る妨げにならないためです。」(コリント人への手紙Ⅰ 3-18)とさえ言っています。そのとうり、この世の知恵と知識は神に至る道には必要ありません。

  『真のキリスト教は現代に至るまで、おそらくただ個々の人々、しかもたいてい世に知られなかった人々においてのみ充分な実を結んだ、と信じたい強い誘惑にしばしば駆られる。』 
(「夜Ⅰ」3月8日)

ヒルティ自身、犯罪人たちが、自殺の境までおいやられた絶望から突然、魂の平安に達し、それから後、重い懲役生活を充分耐えうる、否それどころかそれを当然負うべきものと思うに至ったというような例を見たことを告白しています。 (中沢洽樹訳「ヒルティ著作集9」白水社より)

                                    〔 続きます 〕