2012年3月21日水曜日

    六、 ヒルティと禅                                                                                       P.16

  ヒルティの言葉の中に東洋の禅との類似点を見出すことは興味深いことです。例えば、

   『生死の境に至れば人は必ず彼を見出す。それを自分で体験した者は彼こそは人がやはり思い出す最後のものであることを知っている。』 (「ヒルティ著作集9白水社 前掲141頁)

ここで言う『彼』とは無論、『神』のことでしょう。次は曹洞宗の開祖道元の言葉で曹洞禅の真髄を表現しているといわれます。

 「この生死(しょうじ)はすなはち仏の御命なり。これを厭いて捨てんとすれば、仏の御命を失わんとするなり。これに止まりて生死に着すれば、これも仏の御命を失ふなり。
厭ふことなく、慕うことなき。この時初めて仏の心に入る。ただし、心をもてはかることなかれ。言葉をもて言ふことなかれ。ただ、わが身をも心も放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏のかたより行われて、これに従いもて行く時、力をも入れず、心も費やさずして、生死を離れ仏となるなり。」
                                                                                      (「正法眼蔵 四」岩波文庫)
  パウロが回心にいたる直前は今日で言えば重度の神経症(ノイローゼ)状態にあったと言えないでしょうか。この道元の言葉はあたかもパウロが神経症的とらわれから脱却し回心(解脱)にいたるプロセスを解説しているかのようです。道元の言う「生死」とは神経症を含むあらゆる人生苦を指しており、またヒルティの言う「生死」もほぼ同じ意味と言ってよいでしょう。
神経症の症状は取り除こうとすればますます増大し、かといって追従していっても同じ結果を招くのみです。
 パウロは万策尽きて、どうすることも出来ない、どうにもならない。しかし、パウロはその時それだけになっていきます。つまり、あらゆる自己を放棄し、心の枷を取り外した時に始めて「神(仏)のかたより行われて」パウロの魂に神(仏)の宿りが始まったのです。それが回心(悟り)となっていったのです。そこには仏教もキリスト教もなく、唯一無二の前述した「大宇宙に存在する普遍的真理」が存在するのみでありましょう。

  神経症をはじめとするあらゆる人生苦から来る不安感、恐怖感、孤独感、絶望感等の負の感情は人間を恐れおののかせ、暗い穴倉へ閉じ込めていきます。しかし、自我の全てを放棄し、神(仏)にすべてを委ねた時、自分の魂の中にこれまでになかった全く新しい、しかもこの上なく高貴な存在が現れてくるのです。それこそが「聖霊」であり、また「死人をよみがえらせてくれる神」というものでありましょう。その時、初めて人は安心立命の境地に至るのです。

 感情は人間が生きている証です。だから、正負どちらの感情からも私達は逃げることは出来ません。しかし、艱難辛苦を通して聖霊の宿りを得たとき、神の光はあらゆる負の感情を凌駕します。しかし、それは負の感情が駆逐されるということでなく、さして気にならない存在に追いやられるということです。
不安や恐怖といった感情の奥底には死に対する恐怖感が存在すると言われます。しかし、三章で触れたように「死の正しい意味」を知った時、死に対する恐怖感は克服され、他のあらゆる負の感情もどうでも良い存在に追いやられることになります。

                                                      (続きます)


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