十三、 最後に P.26
わが心の師ヒルティの言葉に触れつつ、思いを記してきました。日頃、あまり文章など書いたこともないので、まとまりも文章表現も良くなく、分かりにくい箇所があったのではないかと思われます。お許しください。
繰り返すようですが、私としてはただひたすら、絶望している人、意気消沈している人、自殺を考えている人など現在、艱難辛苦の中にある人たちに「ヒルティの言葉あるいは私のささやかな体験談の中から何かをつかんでほしい、参考にして欲しい」との願いがあるだけです。
ヒルティはこの人生を『高い目標を追って進む次の存在のための学校』(二章参照のこと)とみなしました。その門戸はすべての人たち、特に艱難辛苦の中にあるすべての人々に対して開かれています。
もし、あなたが今、艱難辛苦の中にあるならあなたはこの学校への入学を許されたのです。ぜひとも、入学してください。この学校の生徒であることは神に選ばれた証だと自覚し、卒業を目指して邁進しなければいけません。ただし、この学校を卒業することは非常に難しいことです。おそらくこの世で一番卒業が難しい学校でしょう。逆にそれだけ修行のしがいがあるというものです。
私も少しはある段階を超えたかもしれませんが、卒業したわけではなく、油断は許されません。まだまだ未熟であり、「真の教養人」となるには更なる心の修行を重ねる必要があります。在校期間は肉体的生命が終わるまで続きます。その時、卒業に値するか否かが決定されるでしょう。その決定者は自分自身です。なぜなら、その時点での自分の心のあり方の中に裁きがあるからです。
『問題は愛する能力如何にあって、これのみが来世において判断の尺度になるであろう。』
(「ヒルティ著作集8」P.311 前掲書)
卒業した暁にはこの世で最高、最大の名誉「永遠の生命」が与えられて、「次の存在」への移行が約束されるのです。
以上でひとまず、本稿を終了します。今後は皆様との触れあいのページを設けたりして共にヒルティのことを学んで行く場にしていきたいと願っていますので、ぜひコメント、意見、感想等をお寄せ下さる様お願いします。
〈 ヒルティ略年譜 〉
1833年 2月28日ヴェルデンベルグの祖父の家で生まれる。
1847年 母エリザベート死去
1854年 ハイデルベルク大学卒業。両法(公民法と教会法)学博士の免状を受ける。
郷里にて弁護士を開業。
1857年 ヨハンナ・ゲルトナーと結婚。
1858年 父ヨーハン・ウルリヒ・ヒルティ死去。
長女マリー生まれる。
1865年 キリスト教信仰への決断を得る。
1874年 ベルン大学法学部教授に就任。
1886年 「スイス連邦共和国政治年鑑」を編纂。
1890年 ヴェルデンベルグ地区より連邦国民議会下院議員に選出され、以後死ぬまで代議 士を務める。
1891年 『幸福論 第一巻』
1895年 『幸福論 第二巻』
1897年 妻ヨハンナ死去
1899年 『幸福論 第三巻』
1901年 『眠られぬ夜のために 第一巻』
1902年 ベルン大学総長に就任。
1909年 ジュネーブ大学より名誉法学博士の称号を受ける。
10月12日心臓麻痺のため死去。
1910年 『キリストの福音』
1919年 『眠られぬ夜のために 第二巻』 (マリー・メンタ夫人編)
暑い日が続きます。お体ご自愛のほどお願いします。
返信削除ブログお続けください。
栄光在主
初めまして、関西に住む大学生です。
返信削除僕はヒルティという人を岩波文庫で知って以来、愛読しています。
彼のことを知る日本人が身近にいない事もあり、貴方のブログを
見つけた時は思わず嬉しくなってしまいました。そういう訳で、
コメントを書かせていただきました。
貴方のブログを通してヒルティを知る人が増え、
そしてそういう方々が個人的にイエス・キリストを知る事ができますように。