十三、 最後に P.26
わが心の師ヒルティの言葉に触れつつ、思いを記してきました。日頃、あまり文章など書いたこともないので、まとまりも文章表現も良くなく、分かりにくい箇所があったのではないかと思われます。お許しください。
繰り返すようですが、私としてはただひたすら、絶望している人、意気消沈している人、自殺を考えている人など現在、艱難辛苦の中にある人たちに「ヒルティの言葉あるいは私のささやかな体験談の中から何かをつかんでほしい、参考にして欲しい」との願いがあるだけです。
ヒルティはこの人生を『高い目標を追って進む次の存在のための学校』(二章参照のこと)とみなしました。その門戸はすべての人たち、特に艱難辛苦の中にあるすべての人々に対して開かれています。
もし、あなたが今、艱難辛苦の中にあるならあなたはこの学校への入学を許されたのです。ぜひとも、入学してください。この学校の生徒であることは神に選ばれた証だと自覚し、卒業を目指して邁進しなければいけません。ただし、この学校を卒業することは非常に難しいことです。おそらくこの世で一番卒業が難しい学校でしょう。逆にそれだけ修行のしがいがあるというものです。
私も少しはある段階を超えたかもしれませんが、卒業したわけではなく、油断は許されません。まだまだ未熟であり、「真の教養人」となるには更なる心の修行を重ねる必要があります。在校期間は肉体的生命が終わるまで続きます。その時、卒業に値するか否かが決定されるでしょう。その決定者は自分自身です。なぜなら、その時点での自分の心のあり方の中に裁きがあるからです。
『問題は愛する能力如何にあって、これのみが来世において判断の尺度になるであろう。』
(「ヒルティ著作集8」P.311 前掲書)
卒業した暁にはこの世で最高、最大の名誉「永遠の生命」が与えられて、「次の存在」への移行が約束されるのです。
以上でひとまず、本稿を終了します。今後は皆様との触れあいのページを設けたりして共にヒルティのことを学んで行く場にしていきたいと願っていますので、ぜひコメント、意見、感想等をお寄せ下さる様お願いします。
〈 ヒルティ略年譜 〉
1833年 2月28日ヴェルデンベルグの祖父の家で生まれる。
1847年 母エリザベート死去
1854年 ハイデルベルク大学卒業。両法(公民法と教会法)学博士の免状を受ける。
郷里にて弁護士を開業。
1857年 ヨハンナ・ゲルトナーと結婚。
1858年 父ヨーハン・ウルリヒ・ヒルティ死去。
長女マリー生まれる。
1865年 キリスト教信仰への決断を得る。
1874年 ベルン大学法学部教授に就任。
1886年 「スイス連邦共和国政治年鑑」を編纂。
1890年 ヴェルデンベルグ地区より連邦国民議会下院議員に選出され、以後死ぬまで代議 士を務める。
1891年 『幸福論 第一巻』
1895年 『幸福論 第二巻』
1897年 妻ヨハンナ死去
1899年 『幸福論 第三巻』
1901年 『眠られぬ夜のために 第一巻』
1902年 ベルン大学総長に就任。
1909年 ジュネーブ大学より名誉法学博士の称号を受ける。
10月12日心臓麻痺のため死去。
1910年 『キリストの福音』
1919年 『眠られぬ夜のために 第二巻』 (マリー・メンタ夫人編)
ヒルティにならいて―すべての艱難辛苦の中にある人たちのために
2012年4月14日土曜日
2012年4月9日月曜日
十二、 ヒルティの読み方 P.25
まず、拙稿一章から十一章までのヒルティの著書からの引用箇所を集計してみますと、
「幸福論第一部」 0
「 同 第二部」 15
「 同 第三部」 10
「眠られぬ夜のために第一部」 11
「 同 第二部」 6
となります。見てお分かりのとうり、「幸福論第一部」つまり、「幸Ⅰ」からの引用は皆無です。その理由は「幸Ⅰ」には内容的にヒルティあるいはキリスト教の本質的な部分に触れる箇所が見られないということではないかと思います。少なくとも私にとってはそうなのです。つまり、私が「幸Ⅰ」から学んだあるいは影響を受けたということは殆どあまり、ないと言うことになります。
「幸Ⅰ」の内容は「仕事の上手な仕方」や「時間の作り方」などエピクテトスも含めて現世を生きていく上での処世訓的なものが多くを占めているように感じます。勿論、ヒルティも
『仕事は人間の幸福の一つの大きな要素である。』(幸Ⅰ222頁)、
『キリスト教は生活さるべき一つの生命である。』(夜Ⅱ1月十日)
と言っているように現世での日常生活のありかたというものは大切なことです。
また、「幸Ⅰ」の後半ではキリスト教の信仰についても深い洞察を示しています。しかし、それはまだ、ヒルティそしてキリストの教えの真髄についての言及にまでは至っていません。その真髄とは「艱難辛苦の中にある人を救い(回心)に導く教え」つまり、「福音書」にある「聖霊」、「魂の永遠性」、「復活」、「神の宿りによる真の幸福」等の言葉に満ちた教えです。これらの言葉は「幸Ⅰ」には殆ど見られないのです。
私が思うに「幸Ⅰ」は「幸Ⅱ」、「幸Ⅲ」へ導くためのプレリュード(前奏曲)のようなものではないか、そしてそれはヒルティの意図したことなのかもしれません。
あるいは「幸Ⅰ」と「幸Ⅱ」の刊行された間(1891-1895の4年間)にヒルティに大きな心境の変化があったのかもしれません。
ですから、ヒルティの読み方として「幸Ⅰ」だけを読んでヒルティを学んだと思うのは早計であり、誤解につながりかねないということです。一流の学者先生でさえこのような読み違いをしているのです。
読む順として「幸Ⅰ」よりまず「幸Ⅱ」、「幸Ⅲ」を先に読むということを私はお勧めしたいと思います。また、ヒルティも言っているように「聖書」を脇に広げておくとより理解が深まるかと思います。
「眠られぬ夜のために」の方はこういう問題はないので毎日一章ずつゆっくり読んでいけばよいと思います。
まず、拙稿一章から十一章までのヒルティの著書からの引用箇所を集計してみますと、
「幸福論第一部」 0
「 同 第二部」 15
「 同 第三部」 10
「眠られぬ夜のために第一部」 11
「 同 第二部」 6
となります。見てお分かりのとうり、「幸福論第一部」つまり、「幸Ⅰ」からの引用は皆無です。その理由は「幸Ⅰ」には内容的にヒルティあるいはキリスト教の本質的な部分に触れる箇所が見られないということではないかと思います。少なくとも私にとってはそうなのです。つまり、私が「幸Ⅰ」から学んだあるいは影響を受けたということは殆どあまり、ないと言うことになります。
「幸Ⅰ」の内容は「仕事の上手な仕方」や「時間の作り方」などエピクテトスも含めて現世を生きていく上での処世訓的なものが多くを占めているように感じます。勿論、ヒルティも
『仕事は人間の幸福の一つの大きな要素である。』(幸Ⅰ222頁)、
『キリスト教は生活さるべき一つの生命である。』(夜Ⅱ1月十日)
と言っているように現世での日常生活のありかたというものは大切なことです。
また、「幸Ⅰ」の後半ではキリスト教の信仰についても深い洞察を示しています。しかし、それはまだ、ヒルティそしてキリストの教えの真髄についての言及にまでは至っていません。その真髄とは「艱難辛苦の中にある人を救い(回心)に導く教え」つまり、「福音書」にある「聖霊」、「魂の永遠性」、「復活」、「神の宿りによる真の幸福」等の言葉に満ちた教えです。これらの言葉は「幸Ⅰ」には殆ど見られないのです。
私が思うに「幸Ⅰ」は「幸Ⅱ」、「幸Ⅲ」へ導くためのプレリュード(前奏曲)のようなものではないか、そしてそれはヒルティの意図したことなのかもしれません。
あるいは「幸Ⅰ」と「幸Ⅱ」の刊行された間(1891-1895の4年間)にヒルティに大きな心境の変化があったのかもしれません。
ですから、ヒルティの読み方として「幸Ⅰ」だけを読んでヒルティを学んだと思うのは早計であり、誤解につながりかねないということです。一流の学者先生でさえこのような読み違いをしているのです。
読む順として「幸Ⅰ」よりまず「幸Ⅱ」、「幸Ⅲ」を先に読むということを私はお勧めしたいと思います。また、ヒルティも言っているように「聖書」を脇に広げておくとより理解が深まるかと思います。
「眠られぬ夜のために」の方はこういう問題はないので毎日一章ずつゆっくり読んでいけばよいと思います。
2012年3月28日水曜日
十一、 ヒルティを生きる ― 「人生観のコペルニクス的転回」の達成 P.24
そして、これまでのあらゆる疑問が氷解していき、ついには全てを理解するに至ったのです。この世に生を受けたときから神の愛に包まれていたこと、これまでのあらゆる艱難辛苦は人生最高の目的を達成する為に神が私に与え給うた試練だったということ、等などです。
長年、不可解だったヒルティの言葉の一つ一つが心に染み込むように理解できるようになったのです。今、書いていること自体私一人でなく、何かにそう、『人間生来のあらゆる力に優るある大きな力』に包まれて書いているように感じるのです。
そして、今の私の心境を箇条書きにして披瀝させていただくと、
1、 心の中にこれまでとは全く異なる高貴な存在の宿りを感じる。そのために心が光で溢れ、平 安で幸福な感情に包まれることが多い。一人暮らしをしていても、孤独感に襲われることがな い。
2、 あらゆる生命あるものに友愛、慈愛の心で接することができる。老人、子供、貧しい人、病 人、弱い人から動植物、昆虫に至るまで。
3、 仕事、家事等生活のあらゆる面で真剣かつ、積極的に取り組むことが出来る。
4、 人を恐れる気持ちが希薄になる。
5、 死への恐怖感が薄れる。むしろ、親しみを覚える時さえある。魂の永遠性というものを実感 する。
6、 真実の自分を感じる。
7、 精神と肉体の健康に溢れていることを感じる。
まさに、「今、ヒルティを生きている。」という実感です。自分の変貌振りに我ながら驚嘆するばかりです。50年間「生まれてこなければよかった」と嘆き続けてきました。しかし、「生まれてきて良かった。」これも今の実感です。なんと言う違いでしょうか。ここに「人生観のコペルニクス的転回」が達成されたと言えるのかもしれません。
以上、けして自慢話をしているわけではなく、私のようなどうしようもない人間でも新たに生まれ変わることが出来ることを知って欲しいと願うだけです。
『 いたずらにあなたを苦しめるために
苦難があたえられたのではない。
信じなさい、まことの生命(いのち)は
悲しみの日に植えられることを 』 (「夜Ⅰ」3月15日)
そして、これまでのあらゆる疑問が氷解していき、ついには全てを理解するに至ったのです。この世に生を受けたときから神の愛に包まれていたこと、これまでのあらゆる艱難辛苦は人生最高の目的を達成する為に神が私に与え給うた試練だったということ、等などです。
長年、不可解だったヒルティの言葉の一つ一つが心に染み込むように理解できるようになったのです。今、書いていること自体私一人でなく、何かにそう、『人間生来のあらゆる力に優るある大きな力』に包まれて書いているように感じるのです。
そして、今の私の心境を箇条書きにして披瀝させていただくと、
1、 心の中にこれまでとは全く異なる高貴な存在の宿りを感じる。そのために心が光で溢れ、平 安で幸福な感情に包まれることが多い。一人暮らしをしていても、孤独感に襲われることがな い。
2、 あらゆる生命あるものに友愛、慈愛の心で接することができる。老人、子供、貧しい人、病 人、弱い人から動植物、昆虫に至るまで。
3、 仕事、家事等生活のあらゆる面で真剣かつ、積極的に取り組むことが出来る。
4、 人を恐れる気持ちが希薄になる。
5、 死への恐怖感が薄れる。むしろ、親しみを覚える時さえある。魂の永遠性というものを実感 する。
6、 真実の自分を感じる。
7、 精神と肉体の健康に溢れていることを感じる。
まさに、「今、ヒルティを生きている。」という実感です。自分の変貌振りに我ながら驚嘆するばかりです。50年間「生まれてこなければよかった」と嘆き続けてきました。しかし、「生まれてきて良かった。」これも今の実感です。なんと言う違いでしょうか。ここに「人生観のコペルニクス的転回」が達成されたと言えるのかもしれません。
以上、けして自慢話をしているわけではなく、私のようなどうしようもない人間でも新たに生まれ変わることが出来ることを知って欲しいと願うだけです。
『 いたずらにあなたを苦しめるために
苦難があたえられたのではない。
信じなさい、まことの生命(いのち)は
悲しみの日に植えられることを 』 (「夜Ⅰ」3月15日)
十、 の続き P.23
先日は失礼致しました。自分のことを振り返り、しかも書き留めるとなるとなかなか辛いものがあります。ヒルティ先生でさえ具体的な信仰体験は一切書き残していないようです。(第二章参照のこと)
私の人生は物心ついて以来、恐怖、失望、屈辱、挫折、意気消沈に満ちたものでした。
何をやっても裏目にしか出ない、高校時代神経症に陥った時、世界に冠たると言われた入院療法を数度にわたって受けても効果を得られなかったことが私の艱難辛苦の始まりでした。
何とか大学を出て社会人になったものの、常に仕事や人間関係のトラブルに付きまとわれ、挫折を繰り返してしまうのです。そして、私は不幸を周囲に撒き散らす酒飲みの疫病神のような存在と化していきます。今思うと、荒れ狂う自分の心を麻痺させるための飲酒だったように思います。奇人、変人視され、また人から恨まれ、また人を恨んできました。悲惨と屈辱のなかで半世紀にも渡って心の彷徨は続きました。私は生まれながら大きな心の十字架を背負っているようでした。
口癖は「生まれてこなければよかった。生まれてきたことが間違いだったのだ。」
それでも死ななかったのは心のどこかに「いつかは救われる。」とのかすかな希望があったからでしょうか。聖書や仏教書を読み、また禅の接心会にも参加したりしました。(しかし、洗礼は受けていないし、クリスチャンとは言えません。)そういう中で出会ったのがヒルティの著作でした。日夜読みふけりましたが、なかなか理解できず、心は荒れ狂うばかりです。
このような私の心に奇跡が起こります。とっくに還暦をすぎていました。
ある肌寒い夕方、孤独と悲しみに打ちひしがれながら部屋の雑巾がけをしていたとき、神の光が私の心に差し込んできたのです。この時から、この世で最高にして、最大、最強の高貴な生命体の宿りが私の心の中にはじまったのです。半世紀にもわたる艱難辛苦の集積が強力なエネルギーと化し、心の重い扉をこじ開けたのかもしれません。
( まだ続きます )
先日は失礼致しました。自分のことを振り返り、しかも書き留めるとなるとなかなか辛いものがあります。ヒルティ先生でさえ具体的な信仰体験は一切書き残していないようです。(第二章参照のこと)
私の人生は物心ついて以来、恐怖、失望、屈辱、挫折、意気消沈に満ちたものでした。
何をやっても裏目にしか出ない、高校時代神経症に陥った時、世界に冠たると言われた入院療法を数度にわたって受けても効果を得られなかったことが私の艱難辛苦の始まりでした。
何とか大学を出て社会人になったものの、常に仕事や人間関係のトラブルに付きまとわれ、挫折を繰り返してしまうのです。そして、私は不幸を周囲に撒き散らす酒飲みの疫病神のような存在と化していきます。今思うと、荒れ狂う自分の心を麻痺させるための飲酒だったように思います。奇人、変人視され、また人から恨まれ、また人を恨んできました。悲惨と屈辱のなかで半世紀にも渡って心の彷徨は続きました。私は生まれながら大きな心の十字架を背負っているようでした。
口癖は「生まれてこなければよかった。生まれてきたことが間違いだったのだ。」
それでも死ななかったのは心のどこかに「いつかは救われる。」とのかすかな希望があったからでしょうか。聖書や仏教書を読み、また禅の接心会にも参加したりしました。(しかし、洗礼は受けていないし、クリスチャンとは言えません。)そういう中で出会ったのがヒルティの著作でした。日夜読みふけりましたが、なかなか理解できず、心は荒れ狂うばかりです。
このような私の心に奇跡が起こります。とっくに還暦をすぎていました。
ある肌寒い夕方、孤独と悲しみに打ちひしがれながら部屋の雑巾がけをしていたとき、神の光が私の心に差し込んできたのです。この時から、この世で最高にして、最大、最強の高貴な生命体の宿りが私の心の中にはじまったのです。半世紀にもわたる艱難辛苦の集積が強力なエネルギーと化し、心の重い扉をこじ開けたのかもしれません。
( まだ続きます )
2012年3月26日月曜日
十、 ヒルティと私 P.22
「わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。
わたしを見る人は皆、わたしをあざ笑い
唇を突き出し、頭を振る。
・ ・ ・ ・ ・
母の胎にある時から、あなたはわたしの神。
わたしを遠く離れないで下さい
苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。」(詩篇22-7~12)
屈辱、嘲笑を受け続け、悲哀に満ちたダビデの苦難の人生は読むたびに私(筆者)の人生と重複してしまいます。
私も似たような人生だったからです。高校に入学したころ神経症に陥ったことが私の艱難辛苦の人生の始まりでした。
ここまできて文章が進まなくなってしまいました。自分の過去を振り返るうちに、色々な思いが錯綜して考え込んでしまったのです。申し訳ありませんが、少し、整理する時間を下さい。
今日はおやすみなさい。
「わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。
わたしを見る人は皆、わたしをあざ笑い
唇を突き出し、頭を振る。
・ ・ ・ ・ ・
母の胎にある時から、あなたはわたしの神。
わたしを遠く離れないで下さい
苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。」(詩篇22-7~12)
屈辱、嘲笑を受け続け、悲哀に満ちたダビデの苦難の人生は読むたびに私(筆者)の人生と重複してしまいます。
私も似たような人生だったからです。高校に入学したころ神経症に陥ったことが私の艱難辛苦の人生の始まりでした。
ここまできて文章が進まなくなってしまいました。自分の過去を振り返るうちに、色々な思いが錯綜して考え込んでしまったのです。申し訳ありませんが、少し、整理する時間を下さい。
今日はおやすみなさい。
2012年3月25日日曜日
九、 ヒルティの慧眼 P.21
ヒルティは時代の風潮に流されるようなことはけしてなく、時代の脚光を浴びているような思想に対してもその正体を見透す鋭い眼力を持っていました。
特に、当時既に台頭していた社会主義に対して容赦のない批判を下しています。社会共産主義は20世紀に世界中を席巻し、一時は飛ぶ鳥をも落とすような勢いでしたが、その内部矛盾から崩壊していきました。
今日では社会主義は過去の遺物となり、社会主義ではもはや国家は成り立たないと言うのが世界的常識となってしまいました。
ノーベル平和賞を受賞したゴルバチョフ元ロシア大統領がアメリカ議会に招かれた時、「共産主義の実験は失敗した。」と事実上の共産主義の敗北宣言をしたことはまだ記憶に新らしいものです。
ヒルティが一世紀以上も前に社会主義に対する明確な批判を下していることは驚くべきことではないでしょうか。当時の諸国民がヒルティの警告を素直に受け入れていたなら、その後の社会、共産主義諸国の悲劇は避けられていたでしょう。
『社会主義の最も厭うべき点は、社会主義が嫉妬を人間行動のバネにしており、また実践活動においてもそれを信奉者に教え込んでいることである。嫉妬は人間の本性の一番悪い性質である。』
(「夜Ⅱ」 6月17日)
階級闘争はその最たるものでしょう。
『聖職者達が社会主義に心を寄せるのは大きな誤りである。なぜなら、社会主義では徹頭徹尾、無神論であり、したがって祝福と繁栄を伴わないからである。』 (「夜Ⅱ」5月6日)
ロシア革命や中国文化大革命等においていかに多くの人々が殺害されたかを私達は忘れてはならないでしょう。その中には無数のキリスト教徒も含まれています。社会主義国家の国民は聖書はおろか、ヒルティの著作さえ紐とくことは困難と思われます。
『社会的改革は内的変化に基づくものでなければならない。一切の仕事が神を離れては困難であり、神と共にあれば一切が可能である。これが即ち、社会主義とキリスト教との違いである。』
(「幸Ⅲ」277~278頁)
これこそ慧眼というものでありましょう。
ヒルティは時代の風潮に流されるようなことはけしてなく、時代の脚光を浴びているような思想に対してもその正体を見透す鋭い眼力を持っていました。
特に、当時既に台頭していた社会主義に対して容赦のない批判を下しています。社会共産主義は20世紀に世界中を席巻し、一時は飛ぶ鳥をも落とすような勢いでしたが、その内部矛盾から崩壊していきました。
今日では社会主義は過去の遺物となり、社会主義ではもはや国家は成り立たないと言うのが世界的常識となってしまいました。
ノーベル平和賞を受賞したゴルバチョフ元ロシア大統領がアメリカ議会に招かれた時、「共産主義の実験は失敗した。」と事実上の共産主義の敗北宣言をしたことはまだ記憶に新らしいものです。
ヒルティが一世紀以上も前に社会主義に対する明確な批判を下していることは驚くべきことではないでしょうか。当時の諸国民がヒルティの警告を素直に受け入れていたなら、その後の社会、共産主義諸国の悲劇は避けられていたでしょう。
『社会主義の最も厭うべき点は、社会主義が嫉妬を人間行動のバネにしており、また実践活動においてもそれを信奉者に教え込んでいることである。嫉妬は人間の本性の一番悪い性質である。』
(「夜Ⅱ」 6月17日)
階級闘争はその最たるものでしょう。
『聖職者達が社会主義に心を寄せるのは大きな誤りである。なぜなら、社会主義では徹頭徹尾、無神論であり、したがって祝福と繁栄を伴わないからである。』 (「夜Ⅱ」5月6日)
ロシア革命や中国文化大革命等においていかに多くの人々が殺害されたかを私達は忘れてはならないでしょう。その中には無数のキリスト教徒も含まれています。社会主義国家の国民は聖書はおろか、ヒルティの著作さえ紐とくことは困難と思われます。
『社会的改革は内的変化に基づくものでなければならない。一切の仕事が神を離れては困難であり、神と共にあれば一切が可能である。これが即ち、社会主義とキリスト教との違いである。』
(「幸Ⅲ」277~278頁)
これこそ慧眼というものでありましょう。
2012年3月24日土曜日
八、 自殺願望者へ P.20
『外的生活においては、償いがたい損失とみなされるもの、即ち、「破滅した存在」とかいわば生涯の設計全体にわたる裂け目といったものは、内的生活から見ればけして損失ではない。かえってそれは、キリストへの信仰が最も良く栄える地盤である。まさしくこのような状態にありながら絶望し、自分がどんなに救いに近づいているかを悟りえなかった人々こそ、あらゆる人間の中でもっとも哀れむべき人々である。』 (「幸Ⅱ」317頁)
日本における自殺者数は13年連続で3万人を越えるそうです。この人々は本来ならば、ヒルティの言う「神の学校」つまり、『次の存在のための学校』に入学するに値する人たちと言えます。
そして、苦悩という教師に厳しい教育を受けて魂の成長を果たし、『真の教養人』となって、世の中核となりうる人たちでした。しかし、そうはならず『あらゆる人間の中で最も哀れむべき人々』となってしまいました。それはなぜて゜しょうか。
それは『そのような気の毒な道をたどりつつある人々にむかって、誰も一度も真理を語ってやることがなかった。』(前掲に同じ)からです。
現在、関係者をはじめとする多くの人達が自殺予防のために取り組んでいるようですが、その効果はなかなか現れないようです。神学校や大学で教義や理論を学んだだけの神職、僧職や心理療法家ではやはり何か足りないのです。せめて誰か一度だけでもヒルティの著作の中から苦悩と死の意味を語り聞かせられたらと心から悔しく、残念な思いに駆られてしまうのです。
『自分で死にたがるのは人生の困難を逃れようとする不誠実な手段である。
・ ・ ・ ・ ・ ・
自分勝手な死によって、恐らく人生はけして終わってしまったわけではなく、、その後に別の、たぶん遥かに困難な生活が続くであろう。もしそうだとすれば、どんな場合にもわれわれはこの生を勝手に断ち切ることは出来ないのである。』 (「夜Ⅰ」11月1日)
自殺は内なる神性の抹殺であり、神への冒涜の最たるものといえるかも知れません。心の奥底にある「宝玉の如き心」を掘り出すことなく、自らの命を絶つなどなんともったいないことではありませんか。第一章のヒルティの言葉を思い出してください。
ダンテの「神曲」には自殺者の霊がたどる悲惨な光景が描かれています。彼らは真っ暗闇のなかをたった一人でしかも、永遠に彷徨い続けなければならないのです。その時、「しまった」と後悔してももう手遅れです。
なんとしても自ら命を絶つことだけは思いとどまり、神への道を目指すべきです。何十年かかろうといつか必ず回心(悟り)に辿り着くのだとの力強い決意を持つこと。なにより、「忍耐」が必要です。そして、悪による死への誘惑を断固拒否しつづけることです。
自慢じゃありませんが、かく言う私(筆者)は心に「神の光」を見出すまで無明の中を彷徨うこと半世紀、50年近くかかりました。人生というものはそれだけ苦労する価値があるものなのです。生命の永遠性を考えれば、50年などほんの一瞬かも知れません。
『この世の最大の力とは国民の数や兵力や富ではなく、神の霊にすっかり満たされた個々の人格であり、これは一国にとって、何物にも代えがたい価値を持つものだ。』(「夜Ⅰ」5月28日)
絶望の真っ只中にいる数万の自殺願望者が「永遠の神の光」に目覚めて、回心に至れば国家を大変身させることも出来るでしょう。
『外的生活においては、償いがたい損失とみなされるもの、即ち、「破滅した存在」とかいわば生涯の設計全体にわたる裂け目といったものは、内的生活から見ればけして損失ではない。かえってそれは、キリストへの信仰が最も良く栄える地盤である。まさしくこのような状態にありながら絶望し、自分がどんなに救いに近づいているかを悟りえなかった人々こそ、あらゆる人間の中でもっとも哀れむべき人々である。』 (「幸Ⅱ」317頁)
日本における自殺者数は13年連続で3万人を越えるそうです。この人々は本来ならば、ヒルティの言う「神の学校」つまり、『次の存在のための学校』に入学するに値する人たちと言えます。
そして、苦悩という教師に厳しい教育を受けて魂の成長を果たし、『真の教養人』となって、世の中核となりうる人たちでした。しかし、そうはならず『あらゆる人間の中で最も哀れむべき人々』となってしまいました。それはなぜて゜しょうか。
それは『そのような気の毒な道をたどりつつある人々にむかって、誰も一度も真理を語ってやることがなかった。』(前掲に同じ)からです。
現在、関係者をはじめとする多くの人達が自殺予防のために取り組んでいるようですが、その効果はなかなか現れないようです。神学校や大学で教義や理論を学んだだけの神職、僧職や心理療法家ではやはり何か足りないのです。せめて誰か一度だけでもヒルティの著作の中から苦悩と死の意味を語り聞かせられたらと心から悔しく、残念な思いに駆られてしまうのです。
『自分で死にたがるのは人生の困難を逃れようとする不誠実な手段である。
・ ・ ・ ・ ・ ・
自分勝手な死によって、恐らく人生はけして終わってしまったわけではなく、、その後に別の、たぶん遥かに困難な生活が続くであろう。もしそうだとすれば、どんな場合にもわれわれはこの生を勝手に断ち切ることは出来ないのである。』 (「夜Ⅰ」11月1日)
自殺は内なる神性の抹殺であり、神への冒涜の最たるものといえるかも知れません。心の奥底にある「宝玉の如き心」を掘り出すことなく、自らの命を絶つなどなんともったいないことではありませんか。第一章のヒルティの言葉を思い出してください。
ダンテの「神曲」には自殺者の霊がたどる悲惨な光景が描かれています。彼らは真っ暗闇のなかをたった一人でしかも、永遠に彷徨い続けなければならないのです。その時、「しまった」と後悔してももう手遅れです。
なんとしても自ら命を絶つことだけは思いとどまり、神への道を目指すべきです。何十年かかろうといつか必ず回心(悟り)に辿り着くのだとの力強い決意を持つこと。なにより、「忍耐」が必要です。そして、悪による死への誘惑を断固拒否しつづけることです。
自慢じゃありませんが、かく言う私(筆者)は心に「神の光」を見出すまで無明の中を彷徨うこと半世紀、50年近くかかりました。人生というものはそれだけ苦労する価値があるものなのです。生命の永遠性を考えれば、50年などほんの一瞬かも知れません。
『この世の最大の力とは国民の数や兵力や富ではなく、神の霊にすっかり満たされた個々の人格であり、これは一国にとって、何物にも代えがたい価値を持つものだ。』(「夜Ⅰ」5月28日)
絶望の真っ只中にいる数万の自殺願望者が「永遠の神の光」に目覚めて、回心に至れば国家を大変身させることも出来るでしょう。
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