三の(二) P.11
新たな人生の実感こそイエス・キリストが示した「復活」に通じるものでありましょう。キリストは「まことの救い」を身をもって世に示し、二千年にわたって人々に「愛と希望と光」を与え続けたのです。
『復活は「イエスの死はこの地上の外的生活に対する死にすぎなくて、本当は新生であった。」ということの神の側よりする証明である。』 (中沢洽樹訳「ヒルティ著作集9 悩みと光」白水社 344頁)
「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は決して死ぬことはない。」 (ヨハネによる福音書11)
「永遠の命とは唯一のまことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります。」 (ヨハネによる福音書17-3)
この二つのキリストの言葉の中にはキリストの教えのすべて、またヒルティの思想のすべてが濃縮されていると言っても過言ではありません。
『イエス・キリストを知る』と言う意味は、人間の魂の中に聖霊の宿りを得るということでありましょう。
『本来この新しい生命はこれまでの生命に属してないゆえ、この古き生命と共に死ぬことはあり得ない。これは永世について与えうる唯一の説明であり、この霊を持つ者はこの世の生命を疑わない と同様に、永世を疑うことはできないであろう。』 (「幸Ⅲ」342頁)
『神への愛は,この世の生命を越えて、無限に高まることのできるものである。この霊は永世に対する唯一の、全く確実な保障でもある。』 (引用箇所が不明ですが分かりしだい記入します。)
次はネットにあったある不治の病に冒された若者の言葉です。
「僕は重い心臓病のために主治医から余命あと5年と宣告を受けている者です。初めは取り乱しましたが、今は死ぬのが楽しみです。毎日充実した生活を送っています。皆さんも与えられた人生を普通に全うしましょう。
余命がわかると人生観がガラリと変わります。他人の幸せが自分の幸せのように感じます。」
「死ぬのが楽しみ」などという言葉はめったに言える言葉ではありません。
この若者はおそらく「死の恐怖との戦い」という煩悶地獄を乗り越えて神への道に至る扉をこじ開けた後、聖霊の宿りを受け、安心立命の境地に達したのではないかと思われます。
そしてそれは新たな人生の始まりであり、おそらく「生命の永遠性」の確信にまで至ったのではないでしょうか。それはキリストが示した「復活」につながるものです。
― 続きます ―
0 件のコメント:
コメントを投稿