2012年3月18日日曜日

    三、永遠の生命 ― 「復活」の意味するもの                        P.10

 回心の体験の中で最も感動的で心を打ち振るわせるものは自分の魂の中にこれまでとは全く異なる高貴な存在の宿りを感じる時です。新しい、全く別の生命力が自分の内に始まっているのが分かるのです。

  『神の近くにあるという喜びは、あらゆる人間的感情の中でとりわけ強烈なものである。つまり、この感情はそれが人の心を完全に満足せしめるばかりでなく、またあらゆる制限から精神を開放し昂揚する効果の点で、友情や恋愛やその他の感情とはとうてい比べものにならないほど強いのである。』 (「夜Ⅰ」5月11日)

 しかしながら、神の霊が人間の魂に宿ることによって人生最高の目標に到達したとしても、晩年に回心に至ってはたいして意味がないのではないか、という疑問が出てこないでしょうか。
これに対し、ヒルティはそうではなく、霊的生命は生き続けると説いていきます。

  『あなたは現実にあなたがそうであるところのこのようなものを考える存在がまもなくしかも永遠に存在をやめると信じることが出来るか。私は否(ノー)と主張する。』 (「夜Ⅱ」4月14日)

  『老いを経るごとに、体力の衰弱、視力や体力の減退、日常時の記憶や興味の減少に伴って道徳的な諸力がさらにはより高い、はるかに優れた霊的生命がけして衰えるものではないことに直ちに気付くであろう。それどころかこの不滅の霊が一旦人間の内部に宿る時は、最後までやむことなく、その力を増していくものである。』 (「幸Ⅲ」41頁)

 そう、神の宿りの体験は精神的には光溢れる安心立命感を与え、肉体的には慈愛に満ちた行動力を与えます。そして、心底、「救われた」と実感させるものです。さらに、たとえ、高齢であったとしても、年齢に関係なく、新しく高貴な霊の宿った自分の魂の永遠性を確信させるのです。

  『老齢によって生命力は自然に衰える場合でさえ、依然として絶えず増していく霊的な力は、その老年期をもほとんど気付かぬうちに越えて、ついに新しい生命に入るまで、人を高めていくのである。』   (「幸Ⅲ」175~176頁)

たとえ、自分の人生の殆どが終わってしまったと思っている高齢者でもそれまでの艱難辛苦の集積が強力なエネルギーとなって、回心に至ることは充分可能です。その時、彼は全く新しい高貴な存在の宿りを経験することによって、自分の人生が新たなスタート地点に立ったことを実感するでしょう。それがどれ程の感動、励まし、慰めをもたらすものであるかは経験して初めて理解できることです。さらに、「自分は救われたのだ。そしてこれは永遠に続くに違いない。」と確信できるようになります。
                                        (この章はまだ続きます。)

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