2012年3月17日土曜日

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 ヒルティは人は『真の教養人』にならなければならない、と言います。ヒルティの言う『真の教養人』とは一体如何なる人を言うのでしょうか。

  『真の教養人となるためには超感覚的世界の存在の確信に至り、そこから出てくる緒力の助けを借りなければ真の教養を身につけることは出来ない。』 (幸Ⅱ159頁)

  『単に自然のままの気高い心の力をもってしても、なるほど一時は動物的存在以上に自分を高めることもできようが、しかし、そのような無理想の人生観に対抗してどんな事情の下でも粘り強く戦い抜くことは出来ず、打ち続く大試練に会えば、自分自身に絶望しがちなものである。
だから、人間生来のあらゆる力に優るある大きな力が人間存在に働きかけることが必要である。
この大きな力こそ人間が自分自身に打ち勝つことを可能にし、また、どのような外的な禍も、もはや恐れずに足らずとするほどの力を与えてくれるものである。』 (幸Ⅱ159頁)

 ヒルティの言う『真の教養人』とは単に知識に溢れている入るような物知りのことではありません。
それは艱難辛苦を通して自分の魂の中に『人間生来のあらゆる力に優るある大きな力』の宿った人のことです。ヒルティはこれを『超感覚的世界の存在』とも表現していますが、これこそキリスト教徒が「聖霊」、「心理の御霊」或いは「永遠の神の光」、「永遠の神の愛」等と呼んできたものでしょう。
そして、これが自分の魂に宿ることを「回心」、「悟り」、「解脱」などというのです。結局、『真の教養人』とは「回心或いは悟りに至った人」ということでありましょう。

  『真の教養の証拠は第一に精神の健康と力とが次第に高まっていくことであり、次に一種のより高い聡明さが現れてくることである。そして、最後にその人の器量が独特の大きさを加えることである。』                                                                                                         (幸Ⅱ162頁)

  『真に教養のある人はあらゆる厭世主義や僧侶的隠遁に陥ることなく、恐怖や神経症からも或いは焦燥からも免れていて、自分の本質の最も深い箇所で落ち着いて、精神の健康を持ち続けながら、ついに人間生活の最高目標に到達することができる。』 (幸Ⅱ162頁)

  『最後にしかもこれが眼目であるが、持続的な罪の感情がなくなるのである。なぜなら、そうした感情が心にきざしても、いつでも直ちに取り除かれるからである。そして、自分が正しい道を歩んでおり、絶えず前進を続け、かくして全生涯を立派に終えることが出来るという確信を持つことが出来るのである。』 (幸Ⅱ325頁)

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