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『苦難をもって果てしなく長く続く尊続する生涯のための不可欠の教育手段と見るならば、苦難にあずかっている人もこれを迎え入れる理解を見出しえよう。』
(国松孝二他訳「ヒルティ著作集8 悩みと光」309頁 白水社)
ヒルティ、パウロ、ダビデそしてキリスト、彼らの人生に一貫しているのは教義や理論を通してではなく、実際生活の中で遭遇する艱難辛苦を通して真理に到達したということです。
単なるキリスト教義の学者や研究者或いは教義至上の司祭達が真理に到達するのが困難だといわれるのはこのような体験がない、あるいはあっても乏しいという理由からでしょう。
次のヒルティの言葉は回心への過程と行き着くべき心の世界を示しています。
『神の慎重な、ゆるやかな導きは自らそれを経験しない限り誰もが信じがたい、最も不思議な経験の一つである。それはいつも苦痛と不安を通して行われるのである。
人は絶えず、自分の所有する一切のものを捧げ、特にこれだけは本当に自分のものと言える自己の意思さえをも神に委ねる覚悟をしなければならない。そうすると突然、新しい段階が開けてくる。この段階に立つと自分の過去の歩みがはっきり分かり、特に、自分が幸福な道を選んだこと、そして、いまや一つの新しい自由が、しかも永遠に増し与えられたことが明白になる。
というのは、神の導きの道においては一度過ぎ去ったことは再び繰り返されることがないからである。』(夜Ⅰ6月1日)
『われわれは多くの人生経験を積むことによって、全く苦難のない生活をもはや願わないと言う心境に達する。これが「永遠の平安の状態」である。この地上では苦難こそがわれわれの悪い性質から我々を守ってくれる変わりない番人であり、その上、苦難がなければ更に耐え難いであろう生活の単調さをも破ってこれを元気付けてくれるものである。』(夜Ⅰ8月31日)
「私の教えは自分の教えではなく、私をお遣わしになったなった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は私の教えが神から出た者か、私が勝手に話しているか分かるはずである。」
(ヨハネによる福音書7-16、17)
「この方の御心を行う」と言う意味は神の教えを研究、議論することでなく、日常生活の中で神の道を実践、体験していく、そして、そういう中で神の教えの理解が深まっていくと言うことだと思います。
次の章ではパウロの言葉「死人をよみがえらせてくださる神」、ヒルティの言葉「この次の存在」とはどのような意味なのか。関わるテーマとして「魂の永遠性」あるいは「永遠の生命」ということついて掘り下げてみましょう。
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